朝日神明宮
由 緒
社伝によれば、貞観年間(八五八〜八七六)に丹波国桑田郡穴生村(現在の亀岡市)に造営され、元亀三年(一五七二)に現在地に遷座されたといわれている。
天照大神を祭神とし、かっては、南北は五条通から松原通、東西は河原町通から富小路通に至る広大な社域を有し、「幸神(さいのかみ)の森」と呼ばれた。
末社として、竈(かまど)神社、稲荷(いなり)社、祓川(はらいかわ)社、恒情(こうじょう)神社、人丸(ひとまろ)社、飛梅(とびうめ)天神、八幡春日(はちまんかすが)社、猿田彦(さるたひこ)社の八社があったが、天明の大火(一七八八年)及び元治の兵火(一八六四年)によってその大半が焼失し、現在は猿田彦社(幸神社)ただ一社だけが残り、神石二個を安置するのみである。
江戸中期以降、明治維新まで増穂(ますほ)氏が代々神主を務め、中でも増穂残口(ざんこう)(一六五五〜一七四二)は京の町々での通俗的神道講釈を試みたことで知られている。
なお、当社の大祭は九月十六日である。 京都市
上は門前に掲示されている京都市の駒札説明板の文を再録しています。
朝日神明宮の鎮座地
京都市下京区麩屋町五条上る下鱗町