TOP
由 緒
能楽大成、機縁の地
当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(一三七四)のころ父の観世清次と共に大和の猿楽結崎座を率い勧進興行を行ったところで、世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府第三代将軍義満が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え、父子を、それぞれ観阿弥世阿弥と名乗らせた機縁の地である。時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた。謡曲史跡保存会
上は新熊野神社境内に掲げてある由緒書をそのまま再録しています。
王朝の昔から神事や後宴の法楽に演ぜられた猿楽は、大和結崎座の大夫観阿弥とその子世阿弥によって今日傳統藝術として親しまれる能によって仕上げられた。その端緒となった時は、今から六百余年前の應安七年、場所はここ今熊野の社頭であった。
古く八百二十年前、永暦元年、後白河上皇が御願をもって紀伊熊野の森、嚴なたたずまいを移されたこの地に猿楽能を見物した青年将軍足利義満は當時十二歳の世阿弥の舞容に感銘した。そして世阿弥を通して能の大成を後援し、ついに幕府の式楽として採用したのである。
現代の能の隆盛につけても、その日のあでやかな世阿弥の風姿を知る老樟の下に往事を追懐し今熊野猿楽の復興を志ざす人々が一碑を建立して、この史実を記念することになった。ここに請われるまま碑銘の文字を世阿弥自筆本花鏡のなかゝら撰ぶとともにその由来を録して社頭の繁栄と、能の発展を併せ祈願するしだいである。
昭和五十五年庚申十月十六日
文学博士林屋辰三郎
上は右の写真の下左の碑文をそのまま再録しています。石に刻まれた字が読みにくいので間違っていればごめんなさい。
▼新熊野神社は下の3枚の写真をご覧いただけます。▼
|
今熊野神社が能楽発祥、大成の場所であるとして立派な碑が建てられています。11月下旬から12月初めにかけて紅葉が美しく彩られます。京都屈指の紅葉の名所の東福寺や今熊野観音寺へも10分余りで歩けます。
▼新熊野神社境内にある能楽発祥の碑