車折神社(くるまざきじんじゃ)

 5月の嵐山で新緑に囲まれて催行される「三船祭」や、「芸能神社」でよく知られた車折神社です。
 車折神社の社務所で授与された祈念神石を自宅の神棚に供え、願いがかなったらその石にお礼を書き、近くで拾った石を添えて奉納します。
 境内社の芸能神社には芸能祖神の天宇受売命(あめのうずめのみこと)が御祭神として祀られており、芸能人の名が玉垣にずらりと並んでいます。

車折神社の由緒

▼下の文章は車折神社に掲示されている由緒書(下の写真)をそのまま再録しています。

車折(くるまざき)神社の由緒

 御祭神清原頼業(きよはらよりなり)公は天武天皇の皇子舎人(とねり)親王の御子孫であります。
 清原家は代々家学(いえがく)として経書の学問に秀て、特に頼業公は大外記(だいげき)や明経(みょうきょう)博士に任じられ、その後越中の権守(ごんのかみ)、あるいは高倉天皇に御講書(ごこうしょ)を申し上げる侍読(じどく)となり、更には穀倉院別当(こくそういんべとう)の要職にあって常に政務の諮問に応えるなど、当世ならびなき大学者でした(詳しくは時の関白九條兼実の日記「玉葉」や「大日本史」などに見えています)。
 公は平安末期の文治五年(一一八九)閏四月十四日御薨去になりました。法名を宝壽院殿と申し上げ、同家の領地であった此の地に廟を建て宝壽院という寺を営んで菩提を弔うことにいたしました。
 この廟が即ち当社の前身であります。やがて御在世中のご盛徳を慕って庶民が参詣し、発展して現在の神社となり、その御霊験が強い信仰を集めています。
 社伝によりますと宝暦年間(一七五〇年代)に現在の本殿が造営され、その柱、垂木の一つ一つに奉納者の名前が記され、またその頃大阪曾根崎新地には講社もあって、千石(せんごく)船で淀川を上ってはるばる当社へ団参されたようであります。
 公は殊のほか桜を愛でられたので境内に桜を多く植えて桜の宮と呼んでいましたが古書に桜の名所として数えられています。後嵯峨天皇(在位一二四二年~一二四六年)大堰川に御遊幸の砌、この社前においてお召車の轅(ながえ)が折れたので車折大明神と御神号を賜わり正一位をおくられました。以後当社を車折神社と称することになりました。
▲上の文章は車折神社の境内に掲示されている由緒書(下の写真)をそのまま再録しています。

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