猩々山(しょうじょうやま)
寛永十四年(一六三七) 南保町
能楽「猩々(しょうじょう)」より名付けられた。唐(中国)の金山の麓に高風(こうふう)という親孝行な若者が住んでいた。ある夜「揚子の町に出て酒を売れ、必ず富貴の身となる」という夢を見、この教えに従い酒売りをしたところ、次第に富貴となった。客の中でいくら飲んでも平気な者がいるので名を尋ねると、海中に住む「猩々」と答え、立ち去った。高風は酒を持って、濤江のほとりで待って居ると、猩々があらわれ、酒を飲み舞い興じ、高風の正直な心を賞(め)でて、汲めども尽きず、飲めども味の変らない酒壷を与えた。という話からきている。
上は曳山展示館で200円で購入したパンフレットから猩々山の解説文をそのまま再録しています。
猩々山のみどころ
本祭用の見送(みおくり)幕は、中国製の刻糸(こくし)織(綴錦(つづれにしき))で、八十余人もの子供が屋内外で、鬼ごっこ、こままわし、囲碁(いご)などの遊びをしているところを織出したもので「唐子(からこ)遊びの図」と呼ばれている。この八十余人の唐子の動きや表情は一人一人違っており、子供の生き生きとした様子を表現しえいる。また、欄間(らんま)の彫刻は、前後に竜、左右には麒麟(きりん)を配しており、正面の竜は宝玉を持ち、麒麟は曳山の巡行方向に向いている。構造上の特色としては、殺生石山と同じく、屋根は切妻(きりづま)造で、天井を張らずに化粧屋根裏となっているのも興味深い。
上は曳山展示館で200円で購入したパンフレットから猩々山の解説文の一部をそのまま再録しています。
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