文久二年(一八六二)四月、尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士九名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光(ひさみつ)を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王倒幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら三十余名の急進派同志は、文久二年(一八六二)四月二十三日、関白九条尚忠(なおただ)、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら八名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹した。
後ろの広場にある、殉難碑は明治二十七年(一八九四)の建立で、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げる。 京都市
▲上は寺田屋の前に掲示されている京都市の駒札説明板の文をそのまま再録しています。
三十石船とは、江戸時代に淀川を上下した客船である。乗客は、まず船宿に入り、それから乗船していた。寺田屋も有名な船宿の一つで、この付近には多くの船宿が並んでいた。淀川は平安時代以来船運が盛んで豊臣秀吉、次いで徳川家康が過書船の制度を定め、運賃や営業に対し税を課すなど取締りを行い、伏見大手筋には、過書船番所を設けていた。
船の大きさは二十石積から三百石積で数百隻が運行し、貨物や旅客を運んでいた。その内三十石船は長さ約十七メートル、巾二・五メートル船頭四人定員二十八名の旅客専用船で上りは一日又は一夜下りは半日又は半夜で伏見と大阪天満の間を運行した。船賃は江戸時代中期で約五十文、途中枚方に立寄る。そこでは船客に「くらわんか」と声をかけながら、餅を売りにきた。そうした風俗や船内の様子は、落語や講談浪曲で有名である。なお三十石船は明治四年(一八七一)に廃船になった。 寺田屋
▲上は寺田屋に掲示されている駒札説明板の文をそのまま再録しています。
修学旅行生が必ず立ち寄るパワースポット
清水寺音羽の滝のページをご覧ください。
文久2年(1862)の「寺田屋騒動」や慶応2年(1866)の「寺田屋事件」の舞台となった池田屋は2010年の龍馬ブームで多くの見学者が訪れています。かっては伏見にたくさんあった船宿の一つで今も宿泊が可能です。
寺田屋の所在地/京都市伏見区南浜町263
参観料/大人400円、大学・高校・中学生300円、小学生200円、乳幼児入館不可
参観時間/午前10時〜午後3時40分(受付終了)
寺田屋への公共交通機関/京阪電車「中書島」下車、北へ徒歩約7分
JR京都駅からはJR奈良線で次の駅「東福寺」で京阪電車に乗り換え