天神縁起
(境内の由緒書を再録しました)
醍醐天皇朝に菅原道真(すがはらのみちざね)(八四五〜九〇三)は右大臣として、また藤原時平(ふじわらのときひら)(八七一〜九〇九)が左大臣として廟堂に列していた。が道真は時平のざん言により太宰権師(だざいのごんのひら)に左遷、この地において横死を遂げた。その後、時平をはじめ、一門が不慮の災いに遭い、ことに清涼殿(せいりょうでん)の落雷によって、朝臣の頓死、地震災害、天候不順による農作物の不作等政治経済の混乱などはすべて道真の怨霊のなす「たたり」と、人々を恐怖の底に追いやった。
この様な社会情勢の不安定な中で、道真の霊をまつる天神信仰が起った。道真が五十九才で世を去った後、多治比(たじひ)の文子(あやこ)は庭前に小祠(ちいさなほこら)をもうけ道真の霊を拝んでいた。〈当神社の始まり〉天慶五年(九四二)多治比の文子に託して、いまは天神となった道真のお告げがあった。
多治比の文子の記した『北野天満自在天神宮を山城国葛野の上林郷に創建する縁起』(略称『創建縁起』)で、道真はすでに天神の号を得たので鎮国の思いがある、世にあるとき、しばし遊んだ右近の馬場(今の北野天満宮)に祠を構えてまつられることを望むとお告げがあった。天暦元年(九四七)六月九日にこれを北野の地に移した。
天暦年間、再び近江比良宮祢宜良種(ねぎよしたね)の子太郎丸にも託宣が下り、文子は、朝日寺の僧最鎮(さいちん)・法儀(ほうぎ)、鎮世(ちんぜい)等と心を一つにして、崇め仰いだ。このようにして、天暦元年(九四七)より天徳年間(九五七〜九六一)に至る十四年間に、社殿を改築すること五度に及んだ。さらに天徳三年(九五九)右大臣藤原(九条)師輔(もろすけ)は、社殿を造替し宝物を奉納し、社殿や境内の整備は一層すすんだ。永延元年(九八七)初めて北野祭が行われ、官幣が奉奠された。正暦四年五月正一位左大臣の官位が追贈され、同年十月さらに太政大臣が贈られている。寛弘元年(一〇〇四)一条天皇初めて行幸し、玉城鎮護の神社として崇敬を受ける様になり北野社が建立され全国に天神信仰は拡っていき、次々と天神社が生まれていったのである。
当神社は菅原道真(天神様)を初めておまつりした天神信仰発祥の神社であり北野天満宮より先におまつりされましたので、この故をもって北野天満宮の前身神社と言われる由縁であります。
平成四年十二月 文子天満宮宮司 中小路宗広記
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菅原道真公と菅原道真公をお育てになったご両親と乳母をお祀りしてあります。
文子天満宮の所在地 下京区間之町通上数珠屋町通上る天神町
文子天満宮の御祭神 菅原道真公、多治比文子
相殿 文子比売(菅公乳母) 伴氏(菅公御母君) 是善公(菅公御父母)
京都駅からの歩き方 京都駅より烏丸通を北へ、東本願寺の前の道を東へ約200メートル歩くと渉成園の西側の間之町通に到着します。その辺には文子天満宮への案内立て看板がいくつもあるので迷わずに歩けます。
▼文子天満宮絵馬と拝殿(拝殿の右奥に菅公腰掛け石があります。)