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平野神社(ひらのじんじゃ)4
平野神社(前頁よりのつづき)
【8】八姓の氏神と伝奏家
○ 奈良時代末期から「臣籍降下(皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)」の制度が定まり、臣籍降下した源氏・平氏はじめ高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏他天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇されました。
当社が宮中外に祀られたのは、この臣籍降下と深く関わっているようです。『源氏物語』の光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った平野大神の顕現であるとの説も一理あるようです。
○ 江戸初期には平氏嫡流の公卿、西洞院家が当社の伝奏家(天皇に取次言上する役)を勤め、現社殿の復興をいたしました。東大鳥居の「平野皇大神」の御神号額は、当代の西洞院文昭氏の揮毫です。
【異説】
○ 中世期、仁徳天皇が平野の神であると言う説が広く信じられていました。これは仁徳天皇が民家の烟(煙)が立たないのを御覧になり、免税したと言う逸話を当社の竈神に付加した説です。
○ 江戸時代に国学者の伴信友が著作『蕃神考』で、「今木神は百済王なり」との説を、根拠となる史料を改竄(自説に都合よく変える)して唱えました。今でもこの説を敷衍した説が時折出されますが、学問上では否定されています。
【10】名所 桜苑
江戸時代には「平野の夜桜」として桜の名所として全国に知られ、特に珍種が多く現在も約五〇種約四〇〇本の桜が植栽されています。
上の文章は平野神社の境内に貼り出されている由緒書を書き写しました。
別サイトの平野神社のページは綺麗な桜の写真が満載です。