若宮八幡宮の鎮座地
京都市下京区若宮通花屋町上ル若宮町
若宮八幡宮の由緒
▼下の文章は若宮八幡宮に掲示されていた由緒説明書を再録しています。
若宮八幡宮由来記
当宮は天喜五年(一〇五八)源賴義が後冷泉天皇の勅を奉じて創建され六条八幡とも左女井八幡とも言われました。
平安時代は五条大路までが市街地で六条の地は堀川館(やかた)をはじめ当町に賴義・義家の館、その東には後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとしえ著名で、「拾芥抄(じゅうかいしょう)(一五四〇年代)」には「八幡若宮義家宅」の書入れがあり「古事談」にも「六条若宮はかって源賴義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあります。また賴義の誕生水と称される井戸の伝承地があると記されています。(義家誕生一〇四一年))
「五妻鏡(一一九〇年代)」によると文治三年(一一八七)正月十五日六条以南、西洞院以東の壱町の左女御地を社地として六条若宮に寄進されたとあります。
そもそも左女牛(さめごい)とは、現在の醒ヶ井通りのことではなく平安京条坊図によれば北から五条大路(現松原通)樋口小路(現万寿寺通)六条坊門小路(現五条通)揚梅小路、六条小路、左女牛小路(現花屋町通)七条坊門小路(現正面通)北小路、七条大路とあり寄進された壱町とは正しく若宮八幡宮を中心とした一区画であります。
以来、源賴朝からも格別の崇敬を得、文治三年六月十八日には放生会を始行すべき沙汰あり、同年八月十五日に鎌倉八幡宮と共に放生会が行なわれたのが今日の祭事の始まりであります。
さらに室町時代に足利将軍家の崇敬を得てますます栄え応永十七年(一四一〇年)八月、四代将軍義持がお参りした時の様子を伝える「義持社参絵巻」には、本殿のほか公文所、楼門、三重塔などが見え壮麗な殿舎を彷彿(ほうふつ)させられるのですが、惜しくも応仁の乱(一四七〇年)で焼失、その後秀吉の京都改造(短冊形町割・寺院街形成・御土居築造)に際し、天正十二(一五八四年)当時の御旅所のあった東山へ移され天正十六年には方広寺の北へさらに慶長十年(一六〇五年)現在の五条坂へ移って今日に至っているのですが東遷の後も、町民の信仰あつく創建以来の宮を守り、まつりごとを斉行し、年々盛んになってきているのであります。若宮町
▲上は若宮八幡宮に掲示されていた由緒書の文章を再録しています。
京都府八幡市に石清水八幡宮があります。
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