化野念仏寺
(あだしのねんぶつじ)

 千年以上も前のこの化野は風葬の地でした。

 弘法大師空海が葬られて散乱していた無縁仏の供養のために五智山如来寺を建てたのが化野念仏寺の始まりです。

化野念仏寺の由緒

▼下の文章は化野念仏寺に掲示されている京都市の駒札(下の写真)をそのまま再録しています。

化野念仏寺
(あだしのねんぶつじ)

 華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺で、境内には付近から出土した多数の石塔や石仏が立ち並んでいる。
 化野は古くから鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ、
 誰とでも とまるべきかは あだし野の
  草の葉ごとに すがる白露
 という西行の歌にもあるように、「化野の露」は、人生の無常の象徴として和歌などで広く使われている。
  寺伝によれば、弘仁(こうにん)年間(八一〇~八二四)に空海上人がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山(おぐらやま)寄りを金剛界(こんごうかい)、曼荼羅山(まんだらやま)寄りを胎蔵界(たいぞうかい)と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅川の河原に五智如来(ごちにょらい)の石仏を立て、一宇を建立して五智山如来寺と称したのが始まりといわれている。当初は真言宗であったが、鎌倉時代の初期に法然(ほうねん)上人の常念仏道場となり浄土宗に改められ、念仏寺と呼ばれるようになった。
 正徳(しょうとく)二年(一七一二)に寂道(じゃくどう)上が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)坐が安置されている。
 毎年八月二十三、二十四日に行われている「千灯供養(せんとうくよう)」では、八千体にも及ぶ無縁の石仏等に灯が供えられ、多くの参詣者でにぎわう。
             京都市
▲上は化野念仏寺に掲示されている京都市の駒札(下の写真)の文章をそのまま再録しています。

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