豊臣秀頼(とよとみひでより)
文禄2年(1593)に大坂城で生まれ慶長20年(1615)に22歳の若さで自決しています。父は豊臣秀吉、母は秀吉の側室・淀君(茶々)で伏見城で育ちました。徳川秀忠(徳川2代将軍)の娘の千姫と婚姻しますが、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川軍に攻められ母茶々とともに自刃しました。徳川政権下では大坂城で大名を務めていましたが、財の僅少化の為の徳川の命令で多くの寺社の再建に努めさせられました。その一つがこの清凉寺です。
清凉寺への交通手段などについては 清凉寺の桜をクリックするとくわしい情報がご覧いただけます。
1980年(昭和55年)に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土しました。その後の調査でこの骨が人為的に丁寧に埋葬されていることや、介錯の跡、周囲からの出土品などから考察して秀頼公のものと断定されました。
秀頼が没してから368年振りの昭和58年(1983)に、秀頼公が再興につくした由縁を持つ清凉寺に首塚が造られ、ここに首が納められました。およそ1メートル半の高さを持つ首塚は小豆島から運ばれた石で造られているそうです。首塚の脇には大坂の陣諸霊供養塔も並べて造られています。
秀頼公の墓は三十三間堂の東向かいに建ち、浅井長政の院号から名を取った養源院にあります。
豊臣秀頼(とよとみひでより)は豊臣秀吉の子で、母は秀吉の側室茶々(淀殿)、文禄2年(1593)に生まれ、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で自刃をしています。安土桃山時代から江戸時代前期にかけては大名をつとめ、清凉寺の他にも各地の社寺の復興に努めました。
▲清凉寺本堂の西に建つ秀頼公の首塚。
▲小豆島の自然石で造られた豊臣秀頼公の首塚
▲秀頼公の首塚と並んで建つ大坂の陣諸霊供養塔