新日吉神宮
(いまひえじんぐう)
永暦元年(1160)に後白河法皇が御所法住寺(ほうじゅうじ)殿を造営した折、まもり神として滋賀県大津市の山王総本宮日吉大社から山王神を勧請したのが新日吉神宮のはじまりです。
近江の日吉大社から勧請した日吉神社は京都市内にもいくつか見られますが、京都ではこの新日吉神宮が一番大きいようです。
山王の神様が山を拓けているときに猿が助けてくれたという話から、猿が日吉大神の御使者として神猿(まさる)と言われます。新日吉神宮には阿吽の狛猿が奉納されています。
大津市の日吉大社表参道の坂本日吉馬場の桜の写真もご覧ください。
新日吉神宮の御祭神
後白河法皇、皇居守護神山王七社
新日吉神宮の御神徳
厄よけ、方よけ
新日吉神宮の境内社
飛梅天満宮、樹下社(このもとのやしろ)、
愛宕・秋葉神社
新日吉神宮の所在地
東山区妙法院前側町451番地の1
新日吉神宮への公共交通機関
市バス[東山七条]下車、豊国廟太閤垣への道を東へ徒歩約7分
新日吉神宮の由緒
新日吉神宮
(いまひえじんぐう)
永暦(えいれき元年)(一一六〇)、後白河法皇が、その御所法住寺(ほうじゅうじ)内に比叡山東坂本の日吉山王(ひえさんのう)七社(日吉大社)を勧請(かんじょう)したのが当社の始まりである。祭神として、後白河法皇のほか、皇居守護神山王七柱を祀り、酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めている。
当初は智積院南側に創建されたが、元和(げんな)元年(一六一五)、豊国廟社(びょうしゃ)の破毀(はき)とともに旧廟前に移り、更に、明治三十年(一八九七)にこの地に移った。
社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本殿は、天保(てんぽう)六年(一八三五)の改造で、大きな流造(ながれづくり)である。
古くから朝廷の崇敬が厚く、上皇の御幸(ごこう)は百八度に及んだといわれ、数多くの天皇の遺物、宸筆(しんひつ)を蔵している。また、寛政十年(一七九八)に妙法院から境内の樹下社(このもとのやしろ)に寄進された、長谷川等伯筆と伝わる豊臣秀吉の肖像が保存されている。
なお、江戸後期の小沢蘆庵(おざわろあん)をはじめ、多くの文学者の本など近世文学の資料を蘆庵(ろあん)文庫の名で宮司家が保存していることは有名である。 京都市
上は新日吉神宮への道に掲げてある京都市の駒札説明板(下の写真)をそのまま再録しています。