粟田神社(あわたじんじゃ)

 清和天皇の勅旨により出羽守藤原興世が貞観十八年(876)に八坂神社をこの地に勧請したのが粟田神社の始まりとされています。 
 粟田神社には八坂神社と同じく素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと)がご祭神としてお祀りされています。

 昔この辺りは都と東国とを結ぶ街道の要衝で京七口の一つ「粟田口」と呼ばれていました。粟田神社一の鳥居前の三条通が国道一号線と呼ばれる時代もありました。
 都から東へ北へ旅する人々は粟田神社で道中の無事をお祈りするのが習慣となっていました。源義経の奥州下りや、皇女和宮の東下りの際もこの神社で道中の安全をお祈りしたそうです。
 粟田神社では交通安全等のお守りが授与されます。

 粟田神社の10月の秋祭り剣鉾行列は祇園祭の原型といわれています。長さが約8メートル、重さが60キロ程もある重い剣鉾を一人で持ち、剣先をゆらしながら悪霊を鎮めて歩きます。

粟田神社の場所
 
京都市東山区三条通神宮道東入る粟田口鍛冶町
粟田神社への電車とバス
●地下鉄東西線「蹴上(けあげ)」下車、三条通を西へ数分、南側
●市バス「神宮道」下車、三条通の南側歩道に鳥居があります。

粟田神社の由緒

京都市指定有形文化財
 粟田神社 三棟
     本殿・幣殿・拝殿
 粟田神社は、旧粟田村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを祭神とする。社伝によると、貞観十八年(八七六)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座守東陽坊忠尋大僧正が永久年間(二一三~一八)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応九年(一五〇〇)に吉田兼倶が再興したという。
 本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化二年(一八〇五)六月に焼失後、文政六年(一八二三)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
 拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(一七〇三)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である。
    平成八年四月一日指定
         京 都 市
上は粟田神社に掲げられている京都市の駒札説明板を再録しています。